「1」という価値

大マジ!学生たちの反乱 (VOICE 2005.2.2)

(記事概要)
京大の石垣は、学生が立て看板の設置場所として、古くから知られてきた。しかし、去年の秋、大学側は、『その石垣を取り壊す』と、発表。
 学生達は突如石垣が撤去されないよう、夜を徹してやぐらカフェを運営している。
(記事概要以上)

子供の頃を思い出す。今から考えれば、ものすごくつまらないものに、大きな価値を見い出していた。それはただ偶然に拾ったものだったり、親から買ってもらった安物のおもちゃだったり、林の中に作った秘密基地だったり。そしてそれが失われてしまう時、われわれは信じられないほど反発し、必死にそれを守ろうとし、時には泣いてきたこともあったかもしれない。

大人になると、人間関係を構築してゆくことが生きてゆく際にいかに大切かがわかるようになってくる。価値判断の基準も自分自身の判断基準に加えて、他人の判断基準も考慮するようになり、そして、その結果として世間一般に通用する価値判断の基準、つまり「どれだけ金になるか」をまず考えるようになってしまうことも多い。

以前に書いたことを思い出した。学生運動をしていたころ、なぜあんなにも多くの人が、一つの目的のために力をあわせることができたのだろう。そして、なぜ今の学生は(いや、私が学生だった時代も同じ状態だったが)、一つの目的のために力をあわせることができなくなっているのだろう。だるい。かったるい。めんどくさい。そんなことやっても意味ないじゃん。...意味ないじゃん?...意味がない...。

事象一つ一つには、本来意味など存在しない。そうではなくて、人間自身が一つ一つの事象に意味付けを行い、価値を計ってゆくのだ。そして、無意味なものを意味のあるものに転換できるのは、唯一人間だけが行うことができる行為なのだ。

世間的に価値が付加されていなければ、あるいは、それが金にならなければ、数値で計ることができなければ、そこに価値を見出せなくなる。社会に出て、人と人との関わりの重要性が何よりも重要であることに気付くようになると、そういった危険に陥ってしまうことがある。しかし、よく考えてみれば、歴史上の偉大な業績を成し遂げた人たちの多くは、もしかして自分自身がやっている行動の数値的な価値や金銭的な価値など、さほど考えていなかったのではないだろうか。耳が聞こえなくても、ピアノに這いつくばって全身で音を感じ取りながら作曲をした作曲家もいた。学校をろくに出ていなくても、とにかく映画が好きで、映画を見ることに人生の全てをかけた映画評論家もいた。人間の根源を真剣に考えては苦悩していった哲学者達。世の中の全てを数字で表現しようとしてきた偉大な数学者達。

「30年ほど前にこういうことがあれば、ここ(やぐらの中)にいたような人が今、教授をしている。」

リンク先の本文に書いてあった言葉だ。何かを成し遂げようと、一つのことに執着してゆく人たちがいる。その一方で、選択肢が沢山あるからといって、次から次へと新しいものに飛びつき、いろいろなものをつまみ食いしてゆく人たちがいる。情報も、物資も、現代は昔では考えられないほどの物量(数値)に囲まれた時代である。しかし、1より100、100より1000とゼロの数を増やすことに価値を置く人たちもいれば、1は1のまま、その「1」であることを追求し、深めていく人たちもいる。

1匹の犬、1匹の蟻。1人の人間。1羽の鳥。1粒の米。

「1」という単位の価値を、見失ってはいないだろうか。